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はずです

子供の頃、食べ物を粗末にすると怒られたものでした。
 僕は好き嫌いのない子供でしたので、食べ残しで怒られる、ということはありませんでしたが、違ったことで怒られたのを今でも思い出します。
 米櫃に入れるまで床に仮置きしたお米の入ったビニールを跨いだだけでも、母や祖父に怒られました。
 お米を粗末にすると目がつぶれる、というのが、母や祖父の怒り文句でした。
 跨いだだけでお米そのものを粗末にするつもりはありませんでしたが、怒られた直後はお米の入ったビニールに近寄ろうとはしなかったものです。
 もちろん他の食べ物の扱い方についても注意はされましたが、怒られると言うことはありませんでした。
 だからでしょう、スーパーでビニールに入ったお米を買うときは、赤子を抱くような感じでレジへ運びます。
 お米だけが特別な存在のように見え、手荒い扱い方をすると罰が当たりそうな気がするのです。
 最近、食料品を扱ったお店のアルバイト店員が、人様の口に入る食材を粗末に扱っている写真をニュースやインターネットで見聞きします。
 この件についてさまざまな意見や反応も同時に見聞きするのですが、食べ物がもったいない、という言葉を少なからず僕は見聞きしていません。
 さすがに、食べ物を粗末にすると罰が当たる、というのは今の子供へは通用しない怒り文句でしょうが、しかし、食べ物を粗末にしたアルバイト店員の行為やそれに対する意見や反応を見ていて、食べ物を畏れる意識は時代的に薄くなっているのかな、と少しばかり不安を覚えています。
 今は飽食の時代であり、語弊を招くことを恐れずに言えば、例え食べ残しをしてもお腹が空けば別の食べ物がテーブルに並べられるわけですから、僕にとってお米は特別な存在のように見えるように、食べ物がそれと同じように見ることは難しいでしょう。
 食べ物を畏れる気持ち、をそんな時代の中で要求するのは不可能でしょうが、自分たちと食べ物の関係を見つめ直す機会が必要な気がします。
 食材を粗末に扱う行為は、それを作った農家の方や酪農家の方をも悲しませる結果にもなる、というのは難しく考えなくても分かります。
 食育と言う言葉が社会的に話題となりましたが、自分たちと食べ物の関係を教える教育、といった新しい食育が生まれるのを待ちわびているのは、お米に対して畏れる気持ちが消えない僕だけではない――はずです。
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