今年の大河ドラマ『八重の桜』も前半が終了した。前半を振り返ってみて、ひとつ気になったことがあるので記してみたい。それは、人称代名詞「僕(ぼく)」についてである。
storage unit この「僕(ぼく)」という代名詞であるが、古いようで新しい。一般に使われ始めたのは明治以降のことである。だから、それ以前を描く時代劇で、「僕(ぼく)」という人称代名詞を聞くことは殆どない。大抵は「拙者」とか「それがし」である。しかし、時代は下って幕末の頃になると、自分自身のことを「僕(ぼく)」と表現する輩が俄然登場するようになる。その殆どが長州藩士達である。今年の大河ドラマ『八重の桜』でも吉田松陰は己のことを「僕(ぼく)」と言っていた。久坂玄瑞も「僕(ぼく)」と言っていた。『龍馬伝』でも高杉晋作は「僕(ぼく)」と言っていた。桂小五郎も「僕(ぼく)」と言っていた。
吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作・・・
これらの名を聞いてピンとこられる方は多いであろう。いずれも「松下村塾」にゆかりの人物である。つまり、一人称「僕」の普及は、吉田松陰が開いた私塾「松下村塾」に由来するらしいことが分かる。その吉田松陰という人物であるが、当時としてはかなり奇抜な男であったらしい。松下村塾へは昼夜を問わず誰でも出入り自由で、早朝であろうが深夜であろうが、生徒が望めば寝る間を惜しんで講義したというからすごい。24時間オープンだから遅刻も早退もない、妙な学校である。
長州
その妙な学校で、吉田松陰は自らを「僕(ぼく)」と呼んでいた。「僕」とは下僕(しもべ)を意味する「僕」である。「何故、僕なのか?」それには彼の思想の根底にある「一君万民論」が影響している。一君万民とは、ただ一人の君主のみに権威を認め、その下で生きる人民は、身分や貴賎によって差別されないとする思想である。要するに、天皇の下では武士も農民も商人も共に下僕(しもべ)に過ぎないと言うことらしい。この思想に感化された塾生たちは、松蔭を真似て盛んに「僕」と言うようになった。
craft storage 松下村塾の真骨頂である活発な議論は、一人称を「僕」と呼ぶことで始まったと私は考えている。何故ならば、下級武士の某かが意見を述べたとき、上級武士の者が「拙者はそうは思わぬ」とか言っていては、身分の低い者が萎縮して議論には発展しないからである。教室の一人ひとりが「僕」と呼ぶことで、身分の垣根が取れて自由活発な意見が交わされる。あくまでも自論である。
この様な風土の中で育まれた明治維新の志士達が、やがて、近代日本の担い手を育てる為の学校制度を定めた時、「僕」の効用も、学校とともに全国に波及していったとしても不思議には思わない。そして、教育が行き届いた時、明治の日本は『坂の上の雲』に描かれるように、目覚しい発展を遂げる。新時代を生きる明治の青年たちが成し遂げた近代国家の礎は、このような、新しき時代の身分を越えた自由活発な「僕」の思想が根底にあったからだと私は思う。
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